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きっかけは:
それは行きつけの広尾のスペインバルだった。カウンターの横にいたアラ五十男がトライアスロンの話をしていた。なんでも石垣島で行われるトライアスロンにはリレークラスという3人で組んで出るレースがあり、それに2〜3年前から出場しているとか。出たいという友人が多いので来年から2チーム体制にしたいのだが、自転車担当がいないので探している、という話。
「それ、私が手伝えるかも」と手を挙げた。普段はのんびりツーリング程度しかしていなかったが、その3年前にアメリカから帰国するまでの20年間、結構まじめにロードバイクに乗っていて、センチュリー・ライドやマス・ミーティングの類には何回も出ていた。
しかし純粋のスピードレースに出たことはなかったし、私はその時すでに60代も半ば。30代、40代の他のチーム員の足を引っ張ることになるのではないかという、一抹の不安もあった。
石垣島にて:
「伊達さん、40キロをなん分くらいで走ります?」と、チームのランニング担当、元慶應大学陸上部だったというアラフォー男に聞かれた。それに応じてウォームアップをして私の自転車を待つのだとか。しかし見当がつかない。カリフォルニアでは平均30キロ超えを目標に走っていたが、日本では公道上では平均20キロも出ないのだ。環境条件も違うが当時とは年齢も違う。「そうねえ、120分を目標に頑張ります」としか答えようはなかった。
しかし本番で私は速かった。おそらく1時間半をかなり切るタイムでゴールしてしまった。となると、トランジッションエリアに我がランナーの姿はない!そりゃそうだ。予定より30分以上も早いのだから。エリアの外にチームの応援団長(行きつけの居酒屋の大将)の姿を見かけたので大声で叫ぶ。「え、早いじゃないの。ランナーはまだホテルにいるよ。ちょっと待って、今携帯で呼ぶから」てなことに。
おそらく数分だったろうが、待つ身には30分にも思えた。血相を変えて飛んできたランナーに「伊達さん、早すぎるじゃないすかー!ウォームアップできてない!」とまず怒られたが、ホテルから走ってきたのがウォームアップになったんでしょう、非常に良いタイム(44分台)で最後を締めくくってくれました。
その晩の打ち上げの席でも散々言われて思ったのです。こりゃ一人で三種目やるしかないな、と。
港区のトライアスロン教室:
そうは云っても、走る、泳ぐに関してはまるで経験がないので、どうすれば良いのか学ぶ機会を探していた。そして出会ったのが港区の関連団体が主催する「初心者のためのトライアスロン教室 in 房総」。一泊二日の合宿であった。
この催しの実質的主催者である青トラの関口さんとも、そこで知り合うことになった。この人物、ある組織なり運動を一身に背負っているというオーラを初めから発していた。私がいたシリコンバレーに多く苦しくなったらいたタイプで、アントレプレナーと呼ばれている人たちだ。誰も通ったことのない道を自ら切り開きながら目的に向かって進み、いかなる困難も乗り越えるぞという強い意志を持つ。
合宿では現実の厳しさを思い知ることになった。このトライアスロン教室の「初心者」というのは、ジョギングくらいは普段からやっている人、プールで1,000メートルくらいはクロールで泳げる人、というくらいの意味だったのだ。私にとっては続けて走ること自体が困難。5分くらいが限度で、その先は歩いた。初めてのウェットスーツを着てのオーシャンスイムでは目標のブイの遥か手前で足がつり、レスキュウお姉さん(女神に見えました)のお世話になってしまった。結果、最後の仕上げであるアクアスロンでは non-starter での応援組となった。
この経験で得た教訓は、しばらくは体力増強を目的に生活習慣を変えること。週に一度くらいはジョギングをやり、プールで1,000メートルくらいは泳がねばならない。そして時が来たなら、青山トライアスロン倶楽部に加入し、実戦に備える。
突然の病魔を経て:
しかし、時が来る前にわが身に異変が起きた。人間ドックで前立腺癌の疑いが見つかり、精密検査で確定。自転車乗りには多いらしい。摘出手術を受けた後のリハビリを経て青トラにデビューを果たしたのは今年の2月になっていた。
クラブの大島合宿では再び現実の厳しさを思い知る。まず、自転車でのスピードとスタミナが、私のイメージの中にある私の走りにならないのだ。こんなはずでは、、と思いながら、大島一周ではズルズルと遅れて、自転車歴うんヶ月というカワイイ女子とテール競争をしていた。その自転車で足を使い尽くした後のランでは脚が前に出ないのを発見。100mくらいで歩いてしまった。スイムもまだまだの実力不足で、海を怖いと感じた。
その教訓を元に今年の館山トライアスロンにてスプリントクラス初デビュー。もちろん目標はスイムから生きて還り、完走すること。そのための作戦はスイムではバトルをしない、苦しくなったら平泳ぎ。自転車では無理せずランに備える。そしてランでは腕につけたスマートデバイスで脈拍を測り、170を超えないようにして走る。
私の後ろからは大会役員が自転車でついて来ていた。「本部、本部、ランナーまだ走ってます」との声を背に聞きながら、しかしついにゴール。大会役員、ボランティアの方々が総出でハイタッチのトンネルで迎えてくれたし、青トラ仲間の美女が伴走ゴールで出迎えてくれた。私は70歳にして、2017館山トライアスロンの最終フィニッシャーとして完走を果たしたのであった。
posted by 2017.08.28 | メンバー